ライン川クルーズ編
兵庫県 S.N様
6月16日(土) この旅行の出発日
朝早く西宮市の自宅を出発して、関西空港よりKLM航空のアムステルダム行に搭乗してオランダ向かった。機内はほぼ満席であったが順調に飛行して、現地時間の午後3時過ぎに到着した。
空港からホテルに向う時、ホテルを間違えて別のホテルに行ってしまい困ったことになったが、ホテルの人が探してくれて事なきを得た。ここでこれから同行する従姉妹のNさん親子と出会い、これから7月2日まで楽しい旅をすることになる。
まず、6月17日から8日間は私達夫婦とNさん親子と四人でオランダのアムステルダム港をユニワールド社の新鋭クルーズ船S.Sアントアネット号に乗船して、スイスのバーゼル港に向うことになる。時期は初夏で山々は緑にあふれ、ライン河はアルプス山地の雪解けで川幅いっぱいに水を湛えて流れていた。
リバークルーズは2003年秋のローヌ河クルーズ以来である。ヨーロッパの河を利用しての観光旅行の利点はこのローヌ河クルーズの時に体験し好感を持っていた。
まず、各船室がゆったりした二人部屋で、大きなバッグの荷物が自室に収容できる。シャワーなど水回りが整っている。それに最高は食事が広いレストランでゆったりと味わえることは満足である。
外洋クルーズ船のように3000人を超える乗客数と異なり、船上生活において慌ただしさがない。それに河を遡上したり、下ったりしている船は揺れることが殆んどない。
また、川沿いにある観光名所には船を泊めて、徒歩やバスを利用してゆったりと見学や買い物をすることができるので便利であった。
さて、S.Sアントアネット号は長さ135mで客室を80室もつ新造船であった。乗客の皆さんの多くはUSAの方が大半で、あと、カナダ、メキシコ、オーストラリアなどの人がいた。
東アジアの人は私たち日本人4人と、香港の方が2人いるだけであったが、食堂など一同が集まるところでは老夫婦の方々が多く、和気あいあいの雰囲気があり食事を楽しく過ごすことができた。
船内の生活は夕食後各船室に配布される船内新聞(デイリー・プログラム)に記載されているスケジュールにより全てがとり行われるのである。船の運航スケジュール、食堂、サロン、バー、スパ、プールの開閉時間、船内の催し物の時間、観光地の見学スケジュール、オプションツアーの種類や参加要領などである。
ただ全てが英文であるために、よく理解できない部分が度々出てくるが、乗船昇降口にある受付、案内所で尋ねたり、また、その近くにトラベルデスクもあり詳しく説明してくれる。
それにオプションツアーなどはサロンで説明会も行われる。
さて、今回、ライン河クルーズを選んだのは何と言ってもヨーロッパ大陸で一、二を争う大河であり、古来よりこの大陸の中心を横断する大動脈で、多くの人々が利用した歴史が刻みこまれている。
河口からスイスのバーゼル間は1880kmと言われているが、ドイツの新幹線ICEでバーゼルとアムステルダム間は6時間30分で運行されているが、この船は8日かけてじっくりとライン河を遡り、SS・アントワネット号の生活を充分に楽しむことができた。
6月17日(日) クルーズ船第一日
午後からアムステルダム港オスト・ロイデルガーデ乗船場で始まった。ここには数隻のリバー・クルーズ船が係留されていて、すでに多くの乗下船客が集まっていた。乗船時間に少し早目であったが船のタラップを上がり乗船手続きを済ませる。その後、船内で昼食をして、サロンで休憩しているうちに乗客は次第に集まり、船の係員や幹部職員による挨拶や乗船についての注意事項、救難時の説明や実演が行われた。その後に各自の船室に案内された。午後七時からレストランで夕食が始まるころにはアントワネット号はすべるように港を出港しアムステルダム・ライン河運河を走っていた。
6月の日の入りは遅く、整備された幅広い運河は両岸に背の高い樹木が植樹されている、所どころオランダ特有の風車小屋があり素晴らしい景観を見せてくれた。その後、夕日が沈むころにはライン河と運河の水位差を調整する閘門(ドック)を経て船はライン河本流へ入った。
6月18日(月) クルーズ第二日
目が覚めるとライン河両岸に工場と思われる大きな建物がみられる。時には原子力発電所を思わせる特有の形をした煙突が何ヵ所で見られた。これは船がドイツ最大の工業地であるルール地方に差し掛かっているのだと思った。
昼近くに河口から355km遡った所にあるケルンに到着した。昼食後、バスに分乗してケルン大聖堂観光に出発した。乗客は数班に分かれてガイドさんの説明を聞きながら大聖堂の内外を見学する。その後は夕刻まで解散になり各自で目抜きの商店街や周囲の観光施設を自由に見学しバスで船に帰った。夕食時にレストランでは船長主催のウエルカムデナーが盛大に行われた。
6月19日(火) クルーズ第三日
朝が明けカーテンを開けると船は雪解けの水を満面にたたえたライン河を音もなく遡上していた。川幅は広く両岸に牧場と田園それに小さい集落に大きい都市が次々と入れ替わっていく。また、河にある上下の航路には絶えず貨物を積んだ大型貨物船やクルーズ船がすれ違う、ここはドイツの交通の大動脈だと感じた。
朝食後に船はコブレンツに到着した。この町はライン河に西からモーゼル河が合流するところで、合流点には「ドイツの角」(ドイッチェス・エック)という砂州が公園に整備され多くの人々が集まるところである。コブレンツの旧市街地は大変魅力的な街でロマンチックな街路に長い歴史を秘めた広場と教会の建物を各班に分かれて説明を受ける。
その後、ライン河畔のロープーウエイ乗場へ行き、この川を横切って対岸の台地上にあるエーレンブライトシュタイン要塞に向かい見学する。ここでモーゼル河に沿って隣国フランスの軍勢がいく世紀にわたりドイツに侵入し壮絶な争いをした歴史を知ることができた。
その後、船に帰り昼食後オプションツアーに参加し、バスに分乗してマルクブルグ城の見学に出発した。このライン河は古来より交通の大動脈であったので,この河の支配権をえるために各所に城塞や関所が築かれる中で、マルグブルグ城は今に伝わっている城の中で保存状況が良いものとされている。ライン河の中流域では両岸が切り立った台地状の地形になっている、その台地の上部に堅牢な城が築かれている。城内は保存状態もよく日本の漆喰と木造の城とは違い狭く岩石つくりで頑丈である。 この後、我々がオプションツアーに出かけている間に船は出航して少し上流のブラウバッハに到着していたので、バスで後を追いアントアネット号に合流した。
6月20日(水) クルーズ船第四日
船はこれからライン河めぐりの中で風景が最も美しいといわれるライン渓谷を航行する。ライン地溝帯と呼ばれ両岸が切り立った崖になり、その上部が台地上になっている地形で、崖の緩やかな所にはブドウ畑が広がってこのあたりはドイツワインの産地である。また、途中にはローレライの歌で知られる名所旧跡がある。他に両岸の至る所に昔の諸侯の城や館が点在している。あい憎くこの日は小雨が降ったりやんだりで船室からの眺望であった。
昼過ぎに船は河口から500kmのリューデスハイムに到着した。この町はライン河に沿ってできた細長い町で、バスに分乗して町に出かけた。多くの人々が来るところ「つぐみ横町」(ドロッツセルグラセ)は有名で年間300万人の観光客が訪れる。
特に日本人の間によく知られ、ワインの試飲がレストランでできることで喜ばれている。町並には土産物屋とレストランが多く、この町のレストラン(夜はワインバーになる)ではバンドのライブ演奏が昼夜問わず聞けることが、つぐみ(鳥)の賑やかなさえずりとなり名物になったのでは? 私たちが町を散歩しているときにレストランの店頭で、なぜかロシア兵の服装をした数人がロシア民謡演奏してカリンカ等を歌たっていた。あと、船まで散歩がてら歩いて帰り、この後の観光予定はなく、ゆったりと自室でくつろいだ。
6月21日(木) クルーズ船第五日
船はマインツ、ウオルムスを経てシュパイヤーに向かう。ライン河の中流を経て上流に差し掛かる河の両岸にあった台地の崖はなくなり、平野の向こうに、そう高くない山々が見えるようになってくる。シュパイヤーは古い歴史を持ち、古代ローマ人がドイツに侵入したころに建造したバシリカ様式の建物が、今はシュパイヤー大聖堂として世界最大のロマネスク様式の建築物となり世界遺産に指定されている。ここを見学した後に、午後は城下町であり、有名な大学都市であるハイデルベルグ観光へバスに分乗して出かけた。
この町は1997年に訪れたことがあるが、市内を流れるネッカー河を挟んで広がる市街地のなかで南岸の旧市街地には14世紀に創立されたハイデルベルグ大学があり、その背後にある城郭はドイツの有力諸侯であったファルツ選挙侯が築いたものである。この城では多くの日本人旅行者と出会い久しぶりに日本語の会話を楽しんだ。城の展望台からネッカー河に架かる古風のカール・テオドール橋や両岸の重厚な石造りの市街地の眺めていると古い歴史が感じられる。この日も観光客が多く市内は賑やかであった。
その後、船に帰ると楽しい夕食が待っていた。食事の時はいつも四人が座るテーブルはほぼ同じになるので、テーブル担当給仕の几帳面なニックさんとは仲良くなり、何かと気配りをしてサービスをしてくれた。それにもう一人、この船のレストラン部長フランコ・ビンセントさんもよく このテーブルに来てくれて懇意になり、毎夕食時には味は別にして、日本食の特別メニューを一品サービスすることに気を使ってくれたことは嬉しいことだった。
6月22日(金) クルーズ船第六日
ライン河はドイツ・フランス国境を流れている。船はドイツ側のケールに停泊したが、観光の目的地は車で5~6分のフランス側のストラスブールである。この町はアルザス地方にあり、年末には盛大なクリスマス市が開かれることで知られている。
ケールからバスに分乗してストラスブール市内に入り、市内観光はこの町を取り巻く運河に沿って観光船に乗って始まった。ここはヨーロッパ大陸の中心に当たり、ライン河に沿う南北の道、それにフランスのパリとドイツのミューヘン、それにオーストリアのウイーンを結ぶ東西の道の十字路に当たり、古くから物資や人の流通と商業の盛んな土地として栄えていた。この町の中心には今も当時の大商人の多く館がのこっている。この人々がギルドをつくり、その財力でストラスブール大聖堂の建設を支えたことは知られている。
また、この運河の整備もその当時に建設されている。さらに現在はEU(ヨーロッパ連合)の中心地としてヨーロッパ連合議会の議事堂が運河沿いに建設され目を見張る威容を示している。しかしこの町の観光の中心はストラスブール大聖堂である。観光船から上陸して寺院内外を詳しくガイドさんが案内してくれた。
昼食には船に戻り、午後はドイツ側の黒森(シュワルツワルト)と呼ばれている地方へオプションツアーで出かける。この黒森東斜面にはヨーロッパのもう一つの大河であるドナウ河の源流にあたる山地で古くから開けた地域である。この地域の人々の生活の一端を見学するためバスで出かけた。ドイツでは古いなだらかな山脈のことを「森」と呼んでいる。例えば「ボヘミアの森」や「チューリンゲンの森」もその類である。
ケールの東にあるオッフェンブルグを東に進むと次第に山が近くになり、なだらかな上り坂になってくる、この地方では古くから木工製造が盛んで、これに精密機械を組み合わせた鳩時計作りが行われた。バスはまず、時計の製造・販売所を訪れ職人さんの製造実演を見学した。
ここでちょっと質問!時計には小窓からかわいいカッコウが顔を出すのになぜ、鳩時計というのだろ? 店の二階ではこの地方の特産品でもあるブラックフォーレスト チェーリーケーキの試食やショッピングが行われた。
この後、黒森地方の「民家ミュージアム」を見学する。これはこの地方の民家を各年代ごとに再現したもので、ほとんどが農牧業の家であるが、古くは1590年頃の民家から1870年頃にかけて家の形も様々なものが再現されている。その時代の生活様式が展示され中には実演や実習が行われ子供たちの教育の場として使われているようだ。シュワルツワルトは古くからブナ林が多く緑豊かな山地であったので、山がいつも暗く黒森と言われたようだ。
このツアーで思ったことは、ここは山地であるが鉄道や道路も整備されているし、今は多くの町村や小さい地方都市も開けている。しかし、今もなお、ここには古い伝統ある山村の歴史を持ち続ける日本の里山文化地のようなものが感じられた。
6月23日(土) クルーズ船第七日
船はケールより少し上流のブライザッハに停泊した。今日はアルザス地方の白ワイン産地の中心コルマールをはじめ、中世の面影を持つ歴史と食べ物の町リクヴィールをほぼ一日かけてバスで出かけることになった。
ドイツ側のブライザッハを出発してライン河の長い橋を渡り西へ10kmほど行くとフランスのコルマールの市街地が見えてくる。この町は広い平野の真ん中に有るが、西の方には低いなだらかな山地がある。これがヴォーシュ山脈でアルザス白ワインの産地である。この山麓に沿って北はマルレンアイム(ストラスブールの西)からタン(ミュルーズの西)までを「アルザス・ワイン街道」と呼ばれてコルマールはその中央に位置してワイン醸造が盛んで、近くのライン河の港から白ワインが積み出されている。
バスが市内に入るとドイツ風のコロンバーズと呼ばれる木骨組み家屋が多くみられ、(ストラスブールの商人の屋敷にも見られた)それらを狭い運河が町を取り巻いている風景は小ヴェネチアと呼ばれている。この運河を小舟に乗り観光することもできる。その他に民家の屋根に時にはコウノトリの巣が見えるので「コウノトリの里」とも言われている。
午前中にコルマールの市内観光を終わり、これからワィン街道を北北西に10kmほど山の方へ進むと、中世の風情を漂わせる町リクーヴュルに到着した。町の入り口には高い塔を持つ城門があり、町全体が城壁に囲まれている。この町は「ワイン街道の真珠」と呼ばれ、いつも多くの観光客であふれている。
アルザス地方はドイツ・フランス国境にあり、昔から自然の交流があったが、また、交易の主要路に当たっているために両者の激しい戦いの歴史の場でもあった。その度に「最後の授業」のように国語が替わった話は有名である。ただ、このリクーヴュルはその戦火に曝されず、古い町並みや建物を残している町である。この周囲は山地に近く町の周辺はブドウ畑が一面に広がり、アルサスワインの主要生産地でもある。
バスを降りて城壁内にいると、まず、多くの観光客がいるのに驚く。古い町並みはゆるやかに上り、両側におしゃれな店が数多く並んでいた。町並みはほぼまっすぐで20分ほどでドルデータワーという古風の高い塔でこの町並みの終わりである。この町は食事が美味しいのでも知られており、昼食は各自で摂ることになっていた。朝からかなり長い時間が経っていたのでドルデータワーを下った辺りで小さな食堂に入った。タルトフランペ(アルザス風ピザ)やシュークルート(酢キャベツとソーセイジ)など土地の料理があるようだが、この時点ではその知識はなかったのは残念!この後、バスはブライザッハの船に帰った。
今日はレストランで船長主催のフェアウエール・デイナー・パーテイが行われた。食べ物も豪華で賑やかな会場に、船の乗組員全員の働きに感謝して、各乗組員の職場ごとに全員が紹介され拍手が送られた。また、テーブル担当のニックさんやフランコ・ ビンセントさんを、このテーブルに来てもらってお世話になったお礼を言った。
明日はここから少し北にあるスイスのバーゼル港に着きこのクルーズは最後になる予定であったが、なぜか、ライン河の水位が異常に上昇しているため、このブライザッハからバスで一時間ほどかけてバーゼル空港やスイス国鉄中央駅に行くことになった。
6月24日(日) クルーズ船第八日
朝に目を覚ましカーテンを開けると、やはり昨夜と同じブライザッハであった、レストランでいつもの朝食をとり、決められていた八時過ぎにはバスに乗車してスイスのバーゼル駅へ出発した。最後はあっけない別れになってしまった。これから以降は旅行の第二幕であるスイスのグリンデンワルトに六日滞在してユングフラウ・ヨッホに至りライン河上流の水源を極めたあと、グリンデンワルト周辺をトレッキングした後、ルッツェルンを経由してチューリッヒで二日滞在後に、アムステルダム経由で帰国することになる。
スイス・アルプス編
スイス旅行の初日はドイツのブライザッハから始まった。6月24日朝8時過ぎにクルーズ船SSアントワネット号に別れをつげて、バスはスイス・バーゼル市のバーゼル国際空港に向かう人とバーゼル中央駅に行く人を30人ばかりを乗せてライン河に沿って出発した。ブライザッハとバーゼル間は約60kmぐらいで朝の通勤時間であったが道路の混雑もなく先に空港に寄ってから、10時前にはスイス国鉄バーゼル中央駅に到着した。
ここからは船に代って鉄道を利用するので私たちはスイス鉄道のスイス・パス8日間とユングフラウ・パス6日間を用意した。この二種類の鉄道パスを利用することでスイスの国鉄とユングフラウ鉄道の路線のみならず、スイスの主要都市の市電・バスやインターラーケン・グリンデンワルト周辺の登山鉄道・ロープーウェイと路線バスは勿論、湖の観光船にも使用できたのでこれをフルに活用して、グリンデンワルト滞在中の一週間は天気が良ければユングフラウ山塊の周辺をトレッキングして廻ろうと思い、天候の悪い日はインターラーケンやベルンそれにピールなど都市の観光地やブリエンツ湖の遊覧船、さらにスイス時計とスイスチーズのメッカであるジュラ地方のラ・ショウド=フォンやベルレーなどに出かけたい所は多くあったが現実にはなかなか々難しいところもあった。
6月24日(日 スイス旅行第一日(クルーズ船第八日目と同じ日)
クルーズ船アントワネット号に別れてバスでバーゼルのスイス国鉄中央駅に到着した。この時、船の乗客は十数人いたが各自が「スイス特急の旅」などに別れていった。
まず、バーゼル駅の切符売り場の窓口でスイス・パスのヴァリデーション(利用開始手続き)を行う。その後はインターラーケン行のICの時間表を見て乗車ホームへ行くが、少し時間があったので駅構内を散策する。
ヨーロッパの各国同じであるが駅に改札口がなく駅のすべての場所に自由に行けるのが便利である。ただ駅のトイレは有料のところが多いのは困りものである。バーゼル市はスイスの北の玄関に当たりライン河の港をはじめ、町の西側には国際空港(ユーロ空港)があり、鉄道の駅はライン河の東側にドイツ国鉄が併用するバーゼルBF駅と西側にはバーゼルSBB駅がありスイス国鉄とフランス国鉄が併用している。この他にスイスの代表的な工業都市であり、特に化学工業では有名で日本の薬品会社も進出している。
さて、駅構内の売店で昼食を購入してプラットホームに下り列車に乗り込んだ。スイスではほとんどの列車が自由席でそれほど混雑することはない。ゆったり座って昼食のハンバーガーを食べた。
列車はインターラーケン行で途中オルテン、ベルン、を経由して、列車運行時間は約二時間でインターラーケン・オスト駅(567m)に到着した。ここまではスイスらしい嶮しい山の風景は見られなかったが、トウーン湖とプリエンツ湖に挟まれた町インターラーケンの南側にスイス・アルプスの一部が顔をのぞかせていた。
ここまで来るとプラットホームを移動する乗客のほとんどが観光客か登山をする人たちである。いよいよ来たなという感じでユングフラウ鉄道のグリンデルワルト行に乗車した。列車は長い編成で途中ツバイリッチネン駅で前半はラウターブルネン行きで、後半がグリンデルワルト行になる。乗車時間は35分で目的地であるグリンデンワルト駅(1034m)に到着した。
グリンデンワルトには1997年と1999年の二度来たことがあるが、思い出深いところである。この駅の建物や構内は当時と変わりがないが、利用する登山者や観光客は多くなり、アジアの人が圧倒的に増えている。中でも中国の人、インドの人、アラブの人たちが目立っていた。
グリンデンワルトの宿舎は駅から歩いて10分ぐらいの山の手にあるホテル・ベラリーのオーナーである中嶋正晃さんから紹介されたウイークリ・マンションであるシャーレ・バリザンに一週間滞在する。この日は駅まで中嶋さんが車で迎えに来てくれた。中嶋さんとは初めてお会いしたが気さくな方で、この旅行の半年も前からメールを中心に色々な情報をいただき、親戚のバリサンを紹介してもらった。
シャーレ・バリサンはホテル・ベラリーより200mほど下った所にあり、シャーレ・バリサンの一階のテラスに出るとすぐ南には名峰アイガー北壁(3970m)が目の前に聳え立ってている、その姿は凛々しく偉大なものに感じた。その東にはシュレチホーン(4078m)とウエダーホーン(3701m)と続いている。西側は南の険しい山容と対照的に緩やかな傾斜で集落や牧場や冬季のスキー場が開けている。北側は2000m級の山並みが続き、東側は西側に比べれば少し傾斜があるが集落と牧草地や牧場が広がっている。グリンデンワルトは典型的な盆地にあり農牧業の集落である。今でもホテルから駅に行く道路を歩いていると牧草地で刈り取った乾いた牧草を大きな束にして、トラックの荷台に積み込み家に持ち帰る車によく出会う。
さて、今回宿泊するシャーレ・バルサンはこの地域でよく見かける山小屋風の三階建のでっかい建物でその一階にある二寝室とリビング・ダイニングの部分を使用した。少し落ち着いたときに中嶋さんがスイス人の奥さんを連れだって来てくれ、宿泊についての使用上の注意やいろんなアドバイスをしてくれた。私たちも日本から持ってきた薩摩焼酎(中嶋さんは鹿児島出身)やお土産を渡しお礼を言った。
その後夕食の食材を駅前のスーパーマーケット・コープへ買い出しに出かけ準備に取り掛かる、夕食には二階に宿泊していたKさんが急きょ参加することになり最初から賑やかなことになる。テラスで食事をしながらアイガー北壁が夕日に染まり色を変えながら移りゆく姿はすばらしい感動であった。
6月25日(月) スイス旅行第二日
朝起きてテラスに出るとアイガー北壁がいない、西側の牧場や民家は見えている、山の上部だけが雲がかかり見えなくなっていた。天気は下り坂で雨も降りそうな様子のため、ユングフラウ ヨッホに行く予定を変更してスイスの首都ベルンの町にへ行くことに決定する。
バリサンを出発するころは雨は降っていなかったので駅まで1.5kmの道を下る。これからこの道は何回か上下することになるが、真直ぐで結構な傾斜を持っているので、上りは少々嫌になるが山に来ればこんなものやという慣れで何とか克服した。
グリンデンワルト駅はこの朝に到着した観光客で相変わらず混雑している。私たちはインターラーケン行の電車に乗り出かけるが客は少なくのんびりした雰囲気で快適であった。インターラーケンオスト駅はスイス国鉄と私鉄のユングフラウ鉄道の共同の駅舎になっているので乗り換えなどは便利である。すぐにバーゼル行のIC乗場のホームへ移動するベルンまでは約60kmで時間は50分ほどの距離である。雑談をしているうちに間もなく列車はベルン中央駅に到着した。
ベルンはスイスの首都でありながら人口はわずか12万2000人で一地方の小都市のような状況です。しかしこの都市は13世紀には周囲の封建諸侯から独立して自由都市になり、ベルンの市民の力で独立を保ち続けてき誇りがある。また、この都市の地形がこの町を守りやすくなっている。ベルン中央駅を出て、市街を少し歩くとこの町が高台になっており、町の周囲をアレー河がU字型の深い谷で町の周囲を取り囲んでいるのが良くわかる。
さて、ベルン駅から観光に出るとき、私たちとNさんたちの町を散策する目的や年齢による体力差もあり、集合場所と時間を決めて駅で別れて行動した。私たちは駅の近くの公園や教会を見学してアレー河の峡谷眺める展望台にやって来たが、雨がかなりきつく降り始め雨宿りをしている間に疲れてきて雨が小降りの間に駅に帰ることにした。後は駅の近くのデパートなどに入いって過した。駅の周辺はたいへん大勢の人出で賑っていた。Nさんらはベルンがユネスコの世界文化遺産に登録されている重要なゴシック様式の100mにも達する大尖塔をもつベルン大聖堂や12世紀につくられたツイットグロッグと呼ばれる時計塔など見るべきところはかっちりと押さえて帰ってきたのはさすが若さと行動力だと感心した。
その後は天気も良くないので、インターラーケンに急行列車に乗り引き上げて、この駅前にあるスーパーマーケットで夕食の食材や必要な品を調達する。後は登山電車のユングフラウ鉄道を通勤電車のように利用してグリンデンワルトに帰ってきた。一日中町を歩き続けると万歩計の歩数は軽く一万歩を超えていた、あとは夕食を食べてゆっくりと休んだ。
6月26日(火) スイス旅行第三日
天気はまだ回復せずアイガーの姿はない。今日も山行は中止にしてインターラーケンに出かける。インターラーケンの町は谷に沿ってできた細長いトウーン湖とプリエンツ湖の間にある土地にできた町でスイスの二大山岳観光地マッターホルンにツエルマットに対するユングフラウにインターラーケンと対比される観光の拠点になっている。
今日は駅の構内をいつもと反対方向へ出ると、すぐ傍にあるブリエンツ湖畔に出る多くの人がいるので見ると、湖上遊覧船が入港するところであった、天気は曇りで山は見えないが周囲の景色は十分に鑑賞できるのでブリエンツの町まで乗船する。乗客数もかなり多く満席に近く、周囲の山々の緑と静かな湖の景色を1時間10分程の航海を楽しんだ。ブリエンツの町は今までに二度ほど来たことがあるがプリエンツ湖の道路に沿った細長い町で、いつもバスツアーのトイレ休憩の短い時間滞在した場所であった。土産物の店では鳩時計や木彫りの人形など木工製品が多くあった。
船から上陸後、町の食堂で昼食をとり、その後商店街を散策した。ここは多くのバスツアー客が出入りするので免税店があり何時もは活気があった。私たちも孫の大学入学祝いの土産を購入した。その後、ブリエンツからインターラーケンへは20kmぐらいあるのを列車に乗って20分ほどで帰ってきた。インターラーケンオストからウエストへは2kmほど市街地が続き、商店やホテルなどが多くあるので出かけることにするが天気もぐずつき、少々疲れ気味で途中でオストに引き返した。またもや、駅前にあるスーパーマーケットで食材などを購入してグリンデンワルトに帰ってきた。
グリンデンワルトの中心街はここへきて以来あまり見ていなかったのでので、少し歩いてみたが、以前に来たときに比べて商店が多くなり、以前に宿泊したホテルアイガーも新しく建て替えられていた。いま泊まっているシャルレ=バリサンの周辺でも新しいホテルやマンションの建設工事の現場がいくつもある。ベラリーの中嶋さんも最近は新しいホテルやマンションの建築が多くなったことが町の問題になってると話されていた。観光客は増加しているが、この町を通過していく人々が多いのではないかと思った。何はともあれ身体はくたくたに疲れたので早くバリサンに急行したい。
6月27日(水) スイス旅行第四日
朝起きて窓を開くとアイガーが雲の合間から見えている。天気が回復しているので、今日はユングフラウ・ ヨッホ行に決める。朝食が終わるころにはアイガーの全貌が現れてきた。久しぶりに見るとやはり素晴らしい山容である。いつも出かける時は半袖のシャツであるが、今日は3000mを超えるところに行くので防寒衣を用意して出かける。グリンデンワルト駅では悪天候のため二日間待たされた人々で混雑していたが、少人数の強みで素早くクライネシャーデック行の列車に早々と乗り込み出発した。電車はぐんぐん高度を上げて振り返るとグリンデンワルトの町やその周辺の集落や牧場が朝日を受けて輝くパノラマのように展開した。今日は絶好の登山日和になりそうである。
電車は30分ほどでクライネシャーデックに到着した。この駅はグリンデンワルト側からの電車とラウターブルネン側から上がってくる電車が出会うところで山上のターミナル駅になってる。このため観光客と登山客が大変多くて混雑している。そしてこの駅からさらに9km上部に上がるユングフラウ・ヨッホ行の電車が出発するからいつも満席である。この電車はスイスが世界の観光立国として誇りとする凄い路線を造り上げている。それは次の駅アイガーグレチャーから7kmすべてを岩山を刳り貫いたトンネルの路線が高度3454mのユングフラウ・ヨッホ駅まで続いている。更に、このユングフラウ登山鉄道は1912年(大正元年)8月1日に開通しており、この鉄道はオープンしてから今年で開通100周年に当たりいろいろな記念行事を行っているが、今更ながら日本の大正年間にこれを完成させていることに驚かされる。
電車は9kmの路線を50分の時間をかけて上ってくる。ユングフラウヨッホ駅(3454m)は岩山のなかをくり貫かれて造られている。この駅の中に待合室の大ホールやレストラン土産物店などがあり、更に外の万年雪が積もっている氷河の上に出る通路もある。そして、さらに100mも上部にある展望台に通じるエレベータがあり、ここがスヒンクス展望台(3571m)でトップ=オブ=ヨーロッパと呼ばれている。今度は快晴でユングフラウの頂上(4158m)がすぐそこに見えヨーロッパアルプスの素晴らしい景観に触れて感激したが、これまで二度ここへ上ったがいずれも吹雪で視界0であった。多くの人はすぐそばにあるアレッチ氷河の散策などをして楽しんでいたが危険がつきもので、専門のガイドさんの案内で出かけることが大切である。
展望台を降りて、氷河をくり貫いてつくられたところに、色々な氷の彫刻が飾られているアイスパレスを見学しながら駅のホールへ帰ってきた。Nさんと別行動であったので合同し昼食をした後にクライネシャーデックへ下った。クライネシャーデック駅はアイガー北壁がすぐ近くにある山の鞍部のようなところに駅舎の大きな建物があり、その建物の周囲に三方面からくる電車のホームが配置されている山のターミナルである。駅舎には各方面行の広い待合室やレストラン、売店などがある。駅舎から少し離れて大きなホテルの建物が二棟建っている。ここから縦横に初心者向けから高度なアイガー北壁の岩登りまで登山やハイキングコースが伸びている。
ふと思ったことであるが夏のシーズンの登山・ハイキングより、このクライネシャーデックは冬のスキーシーズンの時が最高の人出で賑うように思える。スキー場向きのスロープがグリンデンワルトまで続いている。今と全く異なる冬の景色はちょっとこの場では想像できない。このあとは電車に乗りグリンデンワルトに帰ってきたて町に出て夕食の食材などをコープで購入し上り坂の道を宿舎へ急いだ。
6月28日(木) スイス旅行第五日
今日も快晴であるのでミューレンに出かけよう!ミューレンは深いU字谷の断崖の上にある集落でいつも谷の下の町が見え、天空の世界に居るユートピアのような所のようで一度行ってみたいところであった。グリンデンワルト駅からインターラーケン行の電車に乗りツバイリッチネン駅でラウターブルネン行に乗り換えて4~5分で到着する。
ユングフラウ山(4158m)は大きな山の塊でこの山を中心にその周囲に4000m以上の山々を従えて大きな山塊を造っている。この山塊をベルナー・オーバーランドと呼んでいる。このベルナー・オーバーランドの観光や登山の東の拠点がグリンデンワルトで、ここはアイガーの北壁が町に迫っているが、町全体としてはゆるやかな斜面に牧場や牧草地があり、多くの民家が点在して、どこかのんびりした農牧業の雰囲気をもっているが、しかし、西の拠点のラウターブルネンはグリンデンワルトと自然環境は全く異なり、電車がこの町に近づくと両側に300~500mの高さで切り立った断崖が迫り深い谷底にできた町になっている。ここは氷河により削られてできたU字谷の底でこの谷はさらに奥に向かって15km以上にわたって続いている。これは氷河地形のない日本では見られない素晴らしい景色である。
ラウターブルネンはここに出来たこじんまりとしたシャレタ町である。多くのツアー観光客はここで観光バスを降り、これからユングフラウ行の登山電車に乗りトップ=オブ=ヨーロッパへ向かうのですが、私達はここからグリュチアルプ行のロープーウェイに乗り約500mほど昇る。ロープーウェイにはUSAの団体の人々と一緒になるが、この人たちは陽気で賑やかロープーウェイが揺れると一斉に揺れに合わせて声を出すなど楽しい人たちである。
U字谷の上部に上った。ここからミューレン行の電車でほぼ水平の路線を8kmほど行くと町に到着した。ミューレンの町は対岸に向かって立ち目を上に向けると満面に雪を頂いたユングフラウ(4168m)をはじめメンヒ(4107m)とアイガー(3970m)の三山をはじめその左右に多くの山並みを従えている。 目を下に向けると、今、上ってきたばかりの景色、氷河によりできたU字谷の断崖とその谷底の集落がすぐ下に見えているこの景観は絶景であった。
ミューレン(1634m)の町はU字谷の上部に出来たわずかな平地に多くの家が集まっている。ここから更に上部の山々に多くの登山道やハイキングコースがあり案内板が立っている。私たちはこれから更に上部に行くロープーウェイを利用してシュルツホーン展望台(2971m)へ向かった。ミューレンの村の中を通りロープーウェイ乗場に向かうが村の人に出会うことはあまりなかった。乗り場には観光客が結構な数になり、はるか先のシュルツホーンのいただき目指して急な角度で出発した。運行時間は30分を超えるほど長いが周囲の景色が抜群なので退屈はしなかった。途中の窓から見えるハイキングコースには山歩きを楽しんでいるグループや家族が手を振っていた。
シュルツホーンの展望台は映画「女王陛下の007」の舞台になったと云われる360°回転するレストランがあり、なかなかモダンな建物である。私達はテラス状に出ている展望台で3000M近くの高いところからベルナー・オーバーランドの全景を堪能した。この後ミューレンに下りロープーウェイ駅近くのレストランで昼食をとってから、さらにU字谷の底にあるステッチベルグ駅(900M)へロープーウェイを乗り継いで降りて行った。ミューレンから遠足できていた高校生の団体が乗車してきたが、周囲を気にしながらも、なかなか活発で、やかましい集団であった。
U字谷の底は巾が300~400m位の平地でほゞ中央に巾20~30mほどのリーチュネン河が流れている。その平地を囲むように両岸に高さが300~500mの断崖絶壁がそそり立ちその上は傾斜が緩くなり、人が住むミューレンなどの集落ができる。その断崖には至る所に滝が流れ落ちていて、この渓谷だけで72本の滝があると云われている。シュッテチベルグのロープーウェイ駅はミューレンやシュルツホーンへの入り口になるので大きな駐車場がある。先の高校生らはバスに乗って出かけて行ったが、私たち4人はリーチュネン河に沿ってハイキングコースであり、このリーチュネン・プロムナードを歩くことにした。この道はバス道とは反対の川の対岸にあるので車を気にせずにこの渓谷を鑑賞した。特に300m以上も落差のある滝が流れ落ちる情景は素晴らしい。この道を約4kmほど歩くと有名なツリュメンバッハの滝の入り口に到着した。この滝は落下の浸食で岩肌や氷河の末端が浸食されて滝が岩肌の中に食い込み、表面ではなく岩壁内部の滝を鑑賞する、すごく変わった滝の見学である。受付を通るとエレベータに乗り岩壁を80mほど昇る、ここから岩の中の洞穴を流れ落ちるしぶきとその轟音を聞きながら照明のついた鑑賞用通路を下っていく、この滝は観光客に人気があり、この日も多くの人々が見学に来ていた。
その後、路線バスに乗りラウターブルネンに帰ってすぐにインターラーケン行の電車で終点まで行き、何時ものスーパーマーケットで夕食の食材を仕入れた。先日、宿舎の二階にいるKさんがグリンデンワルトで買い物するのならインターラーケンに行きなさいと教えてくれた。スーパーマーケットの規模や品ぞろえが全く違う、kさんは市内にある二つのスーパーマーケットを見比べてから買うのが良いとまで言ってくれたが、そこまではできなかった。
いろいろの品物を仕入れたのち通勤電車?に乗りグリンデンワルトの宿舎に向かった。この電車で丁度、前の席に座った中国人の女子大生と話をはじめるとシンガポールの大学生でボーイフレンドとスイス旅行中とのことで、シンガポールのことをはじめ、色々な話題で話したのは楽しかった。早いものでこの町でトレッキングなど行動できる日はあと一日のみとなってしまった、晴天が続き条件は良いのでフィルストの方面に行くか、メーンリッヒか明日の状況で決めよう。ベラリーホテルの中嶋さん宅にも伺いお別れの挨拶をして、最後の夕飯はベラリーでしようと思い、電話をしたら明日はあいにく食堂は満席であるとのことで、挨拶だけにする。
普段の宿舎での日常生活は四人で賑やかに楽しく過ごしている。若いお嬢さんは食材などの重い買い物袋を何時も持ってくれて、彼女は歩くのが早いので上り坂は追いつくのに一苦労するなど頼もしかった!また、宿舎ではテラスの前が、家主さん宅の花畑と菜園になっている。時々奥さんが畑の手入れをされている時に皆で会話をしていた。
6月29日(金) スイス旅行第六日
今日も良い天気になったメーンリッヒからウェンゲンに降りよう。それに中嶋さん宅へのご挨拶やチューリッヒへ移動の際に手荷物をライゼベック(手荷物別送便)を使うなら荷物の整理をしなければならないなど、これから忙しくなりそうだ。何はともあれメーンリッヒに向けて出発はロープーウェイ乗場(942m)がこの宿舎の真下にあるので、いつもの道と違う村の人々が日常使っている狭い道を次々探し降りると、うまく乗場近くに到着した。このメーンリッヒのルートは観光のメーインルートとからは離れているので観光客はいない。ロープーウェイは四人乗りで30分以上かかる長いコースであるが、左手を見ればユングフラウ三山がすぐそこに見えて、右手は2000m級の山々が緑に覆われてスイスのアルプの牧場が見えている。そしてゴンドラの下は牧草地や牧場に農家の家屋があちらこちらに建っている風景が展開する。このロープーウェイの終点(2222m)は山の稜線になっている。ここに駅舎とレストランなど数軒の建物がある。
この日はハイキング客が数人いるぐらいで少し寂しい状況であった。しかし、グリンデンワルト側はゆるやかな傾斜で牧草地や牧場や森のある穏やかな地形であるが、それに対し反対側の地形は急傾斜で昨日のラウターブルネンのU字谷に通じており、すごく荒々しい光景になっている。この地点からラウターブルーネン側のウエンゲンの町に行くロープーウェイが通じているので山頂で少し休憩してからこの町に下って行った。
ウエンゲン(1274m)についてはミューレン(1634m)の町と同様に魅力のある町の一つである。これらの町の共通点はU字谷の上部にあり、わずかではあるが平地がありこの部分に出来た町である。どちらも共通点は天空の町であり、世の中の安住の地のように思えるところである。ここは冬のスキーシーズンには多くの人が宿泊するのだろうが、このシーズンの観光客はみな上へ上へとここを通過してしまうので閑散としていた。私達もクライネシャーデック行の電車で出かけることにした。上り電車は30分足らずでクライネシャーデック駅に到着する、二日前よりは人は少なかったがそれでも盛況である。駅のすぐ上にある登山作家である新田次郎さんの追悼の石碑があるので拝見し、ここの上に高山植物が咲いていたので上がって行くと花のシーズンとしては真っ盛りであったが、今日はハイキングの人々が多く各方面からクライネシャーデックに向かってやって来る。その為か人通りが多く植物の勢いがなかった。
この後、駅の野外食堂で昼食をとりグリンデンワルトへ帰てきた。これから宿舎で今日中にこの駅に手荷物をライゼベッグで出すため、自分の手荷物の整理を始めたが一週間ほったらかしにしていたので、整理収納は大変であったが何とかまとめた。この後、夕方にはホテル・ベラリーの中嶋さん宅へ挨拶出かけ、明日の帰りの荷物は今からグリンデンワルト駅に出したいというと、すぐに中嶋さんが車を出してくれた。ライゼゲベックより確実なフアストバッケージ(特急便サービス便)が良いとのことでそれにする。荷物は先にチューリッヒに出発した。この後、今夜の夕食はグリンデンワルトの町のレストランでとることにする。
6月30日(土) スイス旅行第七日
天気はやや下り坂になるがいよいよグルンデンワルトを離れる日になった。シャーレ・バリサンの奥さんが見送りに出てきてくださり四人でお礼を言って別れた。大きな荷物がないので駅まで歩きながら、この見慣れてきたグリンデンワルトの風景に別れを告げて、インターラーケン行の電車に乗り込んだ。インターラーケン・オスト駅でルツェルン行の列車に乗車して、ブリエンツ湖岸を通り抜けてマイリンゲン駅に行く、ここからかなり嶮しい上り勾配でブリューニッヒ峠を越えて美しいザルネン湖を経由して二時間ほどでルツェルンに到着した。
ルツェルン中央駅に降りると地階の売店で昼の食べ物を仕入れて食事をして、町へ出かけたが大変な人だかりでどうしたことかと思っていると、6月30日はルツェルンの夏祭りで、今夜は花火大会もあるので、町中が大混雑になっていた。広い道路には屋台と町の広場ではコンサートや催し物が小さな舞台を組んで行われていた。
広い中央駅の構内を出ると、すぐそばにフィーアヴァルトシュッテ湖岸があり、ここからロイス河が流れ出ている、そしてすぐ近くにこの町を代表する木造の屋根のついた独特な形をしたカペル橋が架かっている。中央には八角形の見張り塔が立っている。これを見てルツェルンに来たなと思った。橋を渡ると木造りで屋根の梁の部分に絵を描いた額が取り付けられている。橋にまつわる縁起が描かれているのかと思った。
この後旧市街地をまわったが、お祭りの行事が各所で行われ、それは賑やかなことであった。そして市街地を歩き少し山手にある「嘆きのライオン」の石像のある公園に行った。ここには中国観光客の団体が何組か来ていた。これはライオンが矢に射られて、息絶え絶えになり横たわっている石像であるが、これは当時のスイスを象徴する作品で、フランス革命中に王宮であるチュールリー宮殿のスイスの雇い兵が、革命軍に虐殺されたことを偲ぶものとされている。この当時スイスとしては外国の雇い兵になるしか国内では仕事がなかった。そして外国で多くの命が何のために失われたのかが問われている。この後スイスは農牧業を興し酪農が盛んになった。工業ではこの国の状況に適応した精密機械の時計産業を興し、それに世界に先だって近代的な観光産業を興していったことにつながっているようだ。
この町の賑いはこれからの花火大会まであるが、私達はルツェルンを夕刻に出発した、約50分程でチューリッヒ中央駅に到着した。まず、託送した手荷物を受け取りに別送荷物扱い所へ行くが駅が大変広くて場所が分かりにくかったが何とか探し当てた。今夜の宿舎はホテルモンタナで中央駅から5分ぐらいの近くにある。夕飯を仕入れてからホテルに向かう。場所も静かな所ですぐに場所もわかった。天気は下り坂でぱらぱらしていたがここまでくれば少々の悪天候でも心配はいらない。今日もなかなかハードであったのでホテルでゆっくりしたくなった。明日は一日このチューリッヒで市内観光をするのと、明日の帰りの飛行機搭乗のための荷物の整理をし直さなければならない。
7月 1日(日) スイス旅行第八日
朝からどんよりとして薄暗い、食堂で朝食をとっていると激しく雹が降り始めた。ビー玉くらいの雹が激しい音を立てて降り、一時は道が白くなるぐらい降るので驚いた。気温も急に下がり半袖では少し寒くなる。グリンデンワルトの中嶋さんが図らずも言っていたのは、“スイスは日が照っていたらビキニスタイルで、曇ったり、降ったりしたらヤッケがいる“云う意味がよくわかった。昨日まで町では半袖かノースリーブの人が多かったのに、今日は長袖姿の人が多くなった。
取りあえずチューリッヒ中央駅に出かける、ここは大きなショップ街になっている、ただし、今日は日曜日のため市内の商店街は店を閉じているのが多いので思案のしどころである。取りあえずこの町の中心街であるバーンホッフ通りへ出かけるが大半の店は閉じている、天気もぐずついているし、その上気温が低くなってきたので、町の散歩は取りやめて、まだスイスパスの期限が今日まで有効なので、日曜でも店を開いている駅か空港へ行こうと決めた。特に明日に利用するチューリッヒ・クローテン空港は下見も兼て出かけた。空港までは15分ぐらいで地階のプラットホームに到着する。取りあえずチェックイン・カウンターへ行くコースを辿っていった。かなり上の階に行くのでエスカレーターを利用すれば難しくはないことが分かった。その後はチューリッヒ中央駅に帰り、駅の構内には大きいショッピング街があるので土産物の購入などで見て回った。あとはホテルに帰り、いよいよ最後の荷造りをおこなったが、土産物が増えたためなかなか苦戦をする。
7月 2日(月) スイス旅行最終日
今日は忙しくなる。ホテルで朝食をとり早速空港に向かう鉄道のスイスパスは期限が過ぎたので自動販売機で普通切符を購入するが、機械の使い方については通りがかりの通勤のサラリーマンの人がわざわざ止まって丁寧に教えてくれた。さて、空港では下見をした効果でチェックイン・カウンターへ行き搭乗手続きを済ませる。この後、アムステルダムのスキポール空港に向かい二週間ぶりにここへ帰ってきた。この旅も最終コースになってきた、Nさんたちは成田空港であり、私達は関西空港なので出国審査の後、出発ゲートが異なるのでお別れをした。帰りのKLM機は満席であったが順調に飛行する。
7月3日(火) この旅行すべての最終日
朝早くにはKLM機は日本海に入り松江から岡山を経て関西空港に到着した。入国審査を経て到着ロビーに着いた。この旅行の終着点である。
最後にこの旅行でよかったことはこの旅行のすべてのことを終始この四人でやり終えたことだと思っている。普段のツアーであれば添乗員さんがしてくれていたことを、自分で英語を話し、聴き、考えて行動したこと、毎日の行動も自分たちが考えて実行してきたことではなかろうか。特にこの旅行中、四人以外に日本人がいないという場面がほとんどであったので、そこで積極的に周囲の人に話しかけることが普通のことになっていたのは素晴らしいことだった。
この期間中に英語圏の人々の他にお世話になったスイスの人々やオランダ人、ドイツ人、イタリア人、ポルトガル人、ルーマニア人、イスラエル人、シンガポール人など多くの国の人々と交流できたことは嬉しいことであった。一日中外国語ばかりの中で過ごすのは大変であるが、それが20日間近くも続けばそれが当りまえになってしまった。しかし、関西空港に到着した時は本当にようやくほっとした。